人と野菜と鶏の境界線

昨日の天気予報で今日は雪マークになっていたけど確かに変な天気だ。曇ったり晴れたり雨が降ったり午後には雹が降ってきた。チャビは初めて降ってくる雹に打たれながら氷の粒を食べ物と勘違いしていた。

午前中はストーブの前に座布団を敷いて竹籠を編んでいた。納屋では足が冷たすぎてもう耐えられなかった。すでに足の指はしもやけになってしまった。ストーブの上で小豆を煮ながら籠を編む今日は立ち上げの仕上げ、窓が水滴でびっしょり濡れ暖かい部屋は小豆の香りでいっぱいだ。「これは至福の時間である」と心の中でつぶやく。

午後からは雨が止んだ隙を見てニワトリネットの拡張作業、今思えば鶏たちが我が家にやってきてから人と鶏の距離感をいろいろと実験してきた。初めは小屋だけあってほぼ放任状態、そしたら一羽が行方不明になり山向こうの家でお世話になっていたことがあった。隣のおっちゃんの畑で遊んだり我が家の畑も苗木の段階で食べれろくに育たなかった。それから外に出ないよう小さいネットを張ってみたものの大した効果もなく家の周りは鶏の糞ばかりになった。それでも家の周りをうろうろ巡回している鶏たちは観ているのは楽しく、車で帰ってくると食い物よこせとお出迎えしてくれたりして面白かった。今年からもう少し畑を食べらるようにしようと夏野菜を守るネットを設置した、無事野菜が収穫できたのを機に畑拡張計画を実行した。それにより鶏小屋の周りをネットで囲い鶏様たちのスペースを削らせていただいた。おかげで我々の野菜畑は美味しい野菜が収穫できるようになる。しかし不思議なもので鶏様たちにもできるだけ自然に伸び伸びと暮らしていただきたい気持ちを失うことはなく、この度ニワトリネット拡張とあいなりました。

人の生活スペース、野菜の成長するスペース、鶏の生きるスペースがそれぞれあってその中にも気持ち良いとか悪いとかあって、強く切り分けて囲ってしまえば簡単に解決した気がして考えなくてもよくなるのだけど、そうすると知らないうちに何かを知り捨ててしまうような気がしている。どういうカタチが正解なのか分らないしそもそも正解なんてないのかもしれない。それでも互いに生きていく中で境界がぶつかり合いながら少しずつカタチを変えどこかのカタチに落ち着いていくような気がする。時間はかかるけどこういう方法が面白いしやっていて楽しい。

コロッと切り替わる地点

このところずっと曇りか雨ばかりでだ、外の作業ができないせいか身体も心も鈍ってよくない。気分もあったかい部屋からでられないような感じがする。鶏の朝食の準備で外へ出ても「サムイ」台所に立っていても「サムイ」「サムイサムイ」がいつのまに口から零れ落ちる。定期的に氷を吐き出す製氷機みたいだ、

近頃気づいた変化というと第二世代の雄鶏たちがやたらと突くようになったことと、飼料よりも葉っぱをやたらと食べるようになったことだ。理由は全くわからないけど何かが成長しているのだろう。成長するってのは不思議だ、訳が分からない。いつの間にやらマラソンの折り返し地点を通り過ぎるようにコロッと世界が変わってしまう。

何も変わり映えのしない毎日を過ごしていてもあるときコロッと何かが変わっている。その切り替わる瞬間というのか?タイミングというのか?点?に出くわしたくて今日も”変わり映えのしない一日”を過ごしているんだと思う。でもよく観てる、毎日舐めまわすように”変わり映えのしない一日”を観ている。

あいかわらず練習中の竹籠は底編み段階だけど、今日はなんとか角の立ち上げができた。ほんの少しずつしか変化しないのだけど、何も焦る必要はないし焦って何かをしたくない。なかなかうまくいかない状態にいられることも見方を変えればとてもありがたいことなのかもしれない。

「身近な他人」①

コンビニエンスが編まれた糸でそれぞれの暮しは編まれるようになった。もう複雑に絡んだ網目が解けることはない。糸が変成して硬化しているんだ。解くことも編まれていたことさえも気づいていないのかもしれない。編まないくせに着飾るのは上手かった、ただ上手く見えていただけだったのかもしれない…

 

「カチッ」

しんと静まり返った部屋の壁の向こうからライターを点火する音がした。しぼんだ風船から微かに残った空気が漏れるような一息が聞こえる。今味わった一口が今日吸うたばこの中で一番うまかっただろうと壁の向こう側で煙草を吸う人物に思いを寄せる。空間が静まり返り暗闇の中で時計を探り当てると朝の五時だった。一晩布団の中で温めた暖気が漏れないように慎重に布団の中で体勢を変え落ち着く場所を探す。畳の上に敷いた厚さ10㎝のスタイロフォームが布団の下でミシミシ鳴る。

壁の向こうで寝起きざまに一服しているのはこの家の家主だ。そして今スタイロフォームの上の布団でぬくぬくしているのがこの家の居候だ。家主の家に転がり込んでもう半年近くになる。家主は一服を終えるとベッドから抜け出して必ずトイレへ行く。普段は畳を歩くミシミシという音で目を覚ますのだが今日はもっと早くに目を覚ましていた。トイレから戻ってきた足音が次は居間と接続した玄関扉の方へと近づいていく。

「俺も行くよ」

突然布団の中から居候が声を掛けた。しかし家主は驚く様子もなく玄関の引き戸を開けて外へ出て行った。玄関前の駐車スペースに敷いた砂利を踏む音、軽トラックのドアを勢いよく開く音、エンジンがかかりドッドッドっと今日が始まる音が聞こえ始めた。

窓が泣いていた

台所のストーブの上には赤いやかんが置いてある。湧き上がる水蒸気がゆるく立ち上って空間に消える、消えたと思ったら冷たい窓にぶつかり窓が曇る。その窓のまだ曇りかけのところから外の景色を覗いてみる。外からみれば紺色の半纏と黒いニットを被った背の高い人間が霧の隙間から遠くをみてぼんやりしている滑稽な姿が観えるのだろうに、こういう時いつも第三者の視点が欲しいなと思う。こういった記念的一瞬、決めポーズなどせずごく自然な表情の我を記録してくれるストーキングドローンがあったら面白いのに、、、冷たい空間と暖かい空間の狭間でぼんやり外を観ている。窓から伝わる冷気が肌をヒンヤリさせて少しくすぐったい、ガラス越しに見る曇りかけの外の景色はハッキリせず淡い色合いが混ざり合って何かの抽象画でも眺めているような気分になる。しとしと降り続く雨の音が余計に大きく聞えてくる。

午前中床が土間になった納屋に籠って竹籠を編んでいた。籠の底を編み終わった段階で作業を中断した。脚が冷たい、これ以上作業を続けるとしもやけになってしまいそうだ。作業を中断して昼食の用意をする。

作業場から上がり台所のガラス戸を開けると冷え切った台所、寒すぎて蛇口をひねる勇気が出ない、洗い物の着実に建造されて行っている。明日はれたら…暖かくなったら…そうして時間は流れていく…ストーブに火を入れながら今日もラーメンだなと自分に言い聞かせる。しょうがない…

ただラーメンを作っても面白くないので今日はジャガイモ、赤山芋、鬼火焚きの準備でもらった分厚いシイタケをざく切りにして鍋の中へ入れる。芋たちが茹で上がりホロホロになった頃にはゆで汁はとろみを帯びてシイタケのうま味が溶け出す。極上のだし汁の中に麺を放り込んでぐつぐつ煮込む。その間に自分の足裏を片方ずつ交互にストーブの金網に押し付けて足裏の炙り焼きも用意する。熱くて痛くなるかならないかくらいの絶妙なタイミングでじんわり炙っていくのがコツだ。鍋の中はとろみが強く麺が上手くほぐれなかったけれどそれもまたよし。仕上げにスープを入れてかき混ぜれば完成。名付けて”ホクトロシイタケラーメン”煮たことでシャリシャリからホクホクの触感に変化した山芋、分厚く切ったシイタケはまるで肉のようにしっとりした弾力、とろみの付いたスープが麺に絡みついてしっかりしたうま味。

美味しい…見映えは悪いが格別に美味い。

食事を終える頃には身体もすっかり温まり室内も暖まっていた、曇っていた窓からは滴が幾筋か零れている。空間が暖まりそして窓が泣いていた。

ただそれだけの周りにあるものたち

朝起きてさむいさむい言いながら布団をたたむか、洗面をへ行って一息入れてからたたむか、そんな小さなことで迷う毎朝迷う、たいてい後者になるのだけど、

赤いやかんを火にかけて湯を沸かす、その間歯を磨きながらダイニングテーブルに腰かけてぼーっと台所のすりガラスを観ている。冬でなければ窓は全開にされその景色の奥の小屋から鶏の朝鳴きが目覚まし時計のように響いている。数週間前に親戚のおじちゃんの畑で育った立派な生姜が我が家へきて、擦りおろされて砂糖と煮詰まりタッパーに納まっている。なぜこんなことになってしまったかなんて誰にも予想できないだろうに、自分でも不思議でならない。今では立派な生姜が私の休憩のお供として喉にジンとした刺激をくれている。朝の日課はコーヒーを飲むために買ったステンレスの真空マグに生姜湯を入れてちびちび飲みながら庭を一周して回ることだ。あとに三日はこうして楽しめそうだな。

長靴を履いて外へ出ると何とも言えない気持ちになる。たぶんこの瞬間がピークなのだろう、畑へ入ると完成したばかりの堆肥舎からぷーんと発酵した味噌のような臭いが漂う、鶏たちにいじめられ過保護気味に栽培中の菜の花、紫になるかもということで収穫できずどんどん大きくなるカリフラワー、我が畑から高菜漬けを収穫する夢をすくすく育てる高菜、11月を十二分に楽しませてくれたサラダカブとほうれん草、まだまだこれから楽しめま春菊、これからどうなるエシャレットラッキョウ、来年接ぎ木を控えた柿の木、剪定待ちの栗の木、赤い新芽の出始めたレモンの木、腰の辺りまでぐんぐん伸びた燕麦緑肥、家の裏手回って鶏たちにおはようを言って、大きくなりすぎて越冬が心配なソラマメとエンドウ、日々すくすく太くなる大根と白菜の成長を確認する。そうだ、何が書きたかったか思い出した。白菜が成長して葉っぱが巻いてきているのがうれしかったんだ、ただそれだけだった。

鬼火焚き準備②

休憩から戻り残りの服巻竹を準備して設置場所へと向かう。設置場所は川と田んぼに囲まれた何もない場所ですでに大きな穴が掘られている。掘られているといっても毎年同じ場所に設置するので使いまわしだ。大きな穴の周りにはそれぞれの場所から集めてきた材料がすで準備されている。初めに穴の中心をとりその上に太く丈夫な竹を井型に組んで番線で縛る。そうして竹山の芯になる竹を三本束にして中心に立てる、この長い竹を立てるのは至難の業だ、四方から番線とロープで引っ張り根元を穴の中心に落とし込まなければいけない。立ち上がると途端に風に煽られて倒れそうになる。一本の竹が立っている時に風を受けて根元にかかるエネルギーは凄いものだと体感する。芯が立てば次は青竹と枯れ竹を交互に重ね芯を取り囲んでいく、その間も竹山には数人がへばりついて重ねた竹が倒れないようにしながら番線でしばり少しずつ竹山を大きくしていく。一番外側には服巻竹を重ね最後に笹を束ねたもので足元のボロ隠しをすれば完成だ。去年は冷たい雨が降る中の作業をしていて装備の不十分だった自分は手足が急激に冷え呼吸が荒くなり苦しくなってしまったため途中棄権してしまった。今年は曇りだったけど天気は崩れることもなく最後まで作業に参加することができた。これは自分の中では一つ成長だ。今バリバリ動けている人が動けなくなって参加人数も年々減っていってしまうかもしれないけれど、こういう行事に参加する度この集落で自分には何かできることがあるのだろうか?と考えてしまう。いろんな意見が複雑に絡み合っているのだろうけど共同体として何かをするというのは大切にしていきたいと思う。

鬼火焚きの準備①

やらかした・・・集合は朝の8時、見事に寝坊して朝ご飯を食べ損ねた。昨日仕込んでいた餡子を口一杯に頬張って急いで出発の準備を済ませる。せっかくこの日の為に気持ちを高めていたのに出だしから躓いてしまった。飼っている鶏たちに朝食を食べさせてから集合場所へ向かう。今日は鬼火焚きの準備の日だ。実際火を着けるのは来年だというのにまだクリスマスもきていない今時分から準備しておくのだ。自分の住む田尻集落の鬼火焚きは他の集落のものよりも立派なモノだ、人が3人くらいすっぽり納まる深い穴を掘りそこに切り出してきた孟宗竹を立てて重ねていく、すると高さ8メートルくらいの竹山ができる。それを正月に燃やして燃え上がる火でその年を占う。すでに作業が始まっている集落外れの竹林に合流すると、チェーンソウを使ってバッサバッサと竹が刈られていく、それを次々と軽トラの荷台に積む、軽トラからはみ出た竹を積んで笹を地面に引きずって運ぶ姿は生き物の尻尾のようで何とも不思議な光景だ。芯になる青竹を刈った後は爆竹竹を刈る。これは竹の根元にある節の詰まった竹の事で、火にあぶられた竹は熱で中の空気が膨張し破裂するその時に大きな音が鳴る、より大げさに大きな音が鳴るように使う竹には節間が詰まって分厚く固い竹がいいそうだ。一通り刈り終わると次は芯がよく燃えるように外側に腹巻のように巻き付ける竹を準備する。これは細い笹竹をわら縄で束ねたものでこの作業もなかなか大変だ。あれやこれややっているとあっという間に時間が過ぎて休憩の時間になった。公民館では女性陣が休憩で食べるぼたもちを用意してくれていた。ぼたもちは炊いたモチ米できな粉おはぎにしたものでとても甘く腹持ちがよい。一口では食べきれないほどのぼたもちが2個とそれと同量の大根と人参の膾が付いていた。甘いすっぱ甘いお茶、甘いすっぱ甘いお茶、このリズムで食べているともうお腹いっぱいになる。