ただそれだけの周りにあるものたち

朝起きてさむいさむい言いながら布団をたたむか、洗面をへ行って一息入れてからたたむか、そんな小さなことで迷う毎朝迷う、たいてい後者になるのだけど、

赤いやかんを火にかけて湯を沸かす、その間歯を磨きながらダイニングテーブルに腰かけてぼーっと台所のすりガラスを観ている。冬でなければ窓は全開にされその景色の奥の小屋から鶏の朝鳴きが目覚まし時計のように響いている。数週間前に親戚のおじちゃんの畑で育った立派な生姜が我が家へきて、擦りおろされて砂糖と煮詰まりタッパーに納まっている。なぜこんなことになってしまったかなんて誰にも予想できないだろうに、自分でも不思議でならない。今では立派な生姜が私の休憩のお供として喉にジンとした刺激をくれている。朝の日課はコーヒーを飲むために買ったステンレスの真空マグに生姜湯を入れてちびちび飲みながら庭を一周して回ることだ。あとに三日はこうして楽しめそうだな。

長靴を履いて外へ出ると何とも言えない気持ちになる。たぶんこの瞬間がピークなのだろう、畑へ入ると完成したばかりの堆肥舎からぷーんと発酵した味噌のような臭いが漂う、鶏たちにいじめられ過保護気味に栽培中の菜の花、紫になるかもということで収穫できずどんどん大きくなるカリフラワー、我が畑から高菜漬けを収穫する夢をすくすく育てる高菜、11月を十二分に楽しませてくれたサラダカブとほうれん草、まだまだこれから楽しめま春菊、これからどうなるエシャレットラッキョウ、来年接ぎ木を控えた柿の木、剪定待ちの栗の木、赤い新芽の出始めたレモンの木、腰の辺りまでぐんぐん伸びた燕麦緑肥、家の裏手回って鶏たちにおはようを言って、大きくなりすぎて越冬が心配なソラマメとエンドウ、日々すくすく太くなる大根と白菜の成長を確認する。そうだ、何が書きたかったか思い出した。白菜が成長して葉っぱが巻いてきているのがうれしかったんだ、ただそれだけだった。